正念寺の歴史

正念寺の歴史

正念寺由緒について

当山の創造は、 平惟茂(たいらのこれもち)(維茂)公が戸隠山鬼女紅葉征伐に向う途中、松本から武石峠を通り武石郷上平に仮館を置き逗留。 三七日(さんしちにち)(二十一日間)諸仏に鬼女紅葉征伐の祈願した事に始まる。祈願の後、別所・北向観音へ参篭祈願し、観音菩薩より宝剣を授かり、鬼女紅葉を退治することが出来た。鬼女紅葉退治の満願成就の仏徳を仰ぎ 武石郷上平に堂宇を建立。行基菩薩作の一刀三禮の阿弥陀仏をここに安置し「称念寺(しょうねんじ)」と称した。この時は天台宗寺院だったという。(住僧等の記録は不詳)

後に、武石氏地頭職を務めていた頃、了譽聖冏(りょうよしょうげい)上人(浄土宗第七祖・傳通院住職)の祖孫・酉譽聖聡(ゆうよしょうそう)上人(1366~1440。聖冏上人の弟子、増上寺開山)を当寺開山とし念仏弘通の大願を成就し浄土宗へ改宗。「光明山(こうみょうざん) 摂取院(せっしゅいん) 称念寺(しょうねんじ)」と称した。しかし、この頃乱世にて兵火のため寺宇残らず焼失。中絶して久しかったが、永正年中(1504~1521)、大井大和(おおいやまとの)守信廣(かみのぶひろ) 公、尊像の霊威を仰ぎ今の地に寺を移し、真田信之 公より、境内併せて寺領山林を付与され当寺を改めて建立。真田家に縁があった圓譽厭冏上人を当寺へ迎え京都東山知恩院の末派に属し「光明山 正念寺」と改める。これを中興開山とした。

正徳三年巳(1713)正月五日の夜、火災に遭い記録を悉く焼失。本尊は住僧、報譽阿残上人が抱き出し仮堂に安置し 翌年再建して入佛会を執行。現住職は中興開山よりかぞえて二十二世・鳳譽浩司上人に至っている。

正念寺総代 伊藤誠晤 記す

参考資料 蓮門精舎舊詞第二十六冊(享保五年八月十八日書写銘)
増 上 寺 史 料 集 第 六 巻  (芝 増上寺 所蔵)
正念寺過現名帳(享保二十年 当山第三世・順譽上人書)
武石沿革史(明治二十七年発行)
過現帳・正念寺第二十世・法譽上人書

武石村(現上田市)の起源は、下総の豪族・千葉氏に由来する。千葉介常胤の子・武石三郎胤盛が依田庄武石郷の地頭職を務めていたことからこの地を武石と言われるようになったという。(15世紀末に大井氏が武石の地へ入ってきてからは、千葉氏の名が消えている。)

この豪族・千葉一族の中に増上寺開山・酉譽聖聡上人(1366~1439)がいる。増上寺史によると聖聡上人は、増上寺を開山してからは諸国に巡錫されていないと記されているので、聖聡上人がこの武石の地へ来たかは定かではないが、千葉一族のつながりにより聖聡上人の縁をいただき正念寺(当時・称念寺)を開山した可能性は否定出来ない。(正徳三年の火災により、過去帳等の資料が焼失したため当時の資料確認が出来ない)

以上の由緒資料・伝えから天台宗 称念寺(当時)開基は平 惟茂 公、後の浄土宗 称念寺(当時)開基は武石三郎胤盛(たねもり)公とし、開山は増上寺末称念寺(当時)開山・大蓮社酉譽聖聡上人、知恩院末正念寺中興開山は頓蓮社圓譽上人とする。

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